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NHK 大河ドラマ 龍馬伝

龍馬伝最終回

龍馬伝最終回、近江屋2階で火鉢にあたりながら同志・中岡慎太郎と話をしているところを今井信郎はじめ2~3人の刺客が龍馬のいる部屋へ飛び込み、龍馬の額をいきなり真横に斬りつけます。このシーン少しくらい場面でもあり、変な?テロップも流れ、正直冷めてしまって、表情など完全に見ることが出来なかった。肝心なところで・・・残念!な思いだけが残りました。

当時、龍馬は寺田屋事件で2名の捕り方を射殺した罪で相書が出回っていました。そのため、京都の醤油商・近江屋の土蔵に密室を造り、隠れ家に隠れていたといわれています。龍馬が暗殺される運命の日、その日風邪気味だった龍馬は隠れ住んでいた土蔵を出て、母屋の二階に移ったと言われています。

坂本龍馬が殺されたのは自分の33歳の誕生日である1867年の11月15日の夜、8時30分から9時ぐらいまでの間とされています。龍馬は額を切られ、それでも気丈夫に後の刀をとっさに取り、鞘を抜かずに応戦したが、血のりが眼に入って刀を抜けないまま、二の太刀で肩から切り下ろされ、三の太刀からさらに頭を切られて絶命したのです。そして、一緒にいた中岡慎太郎は、10箇所以上斬られ2日後に死亡したといわれています。

龍馬を暗殺したその太刀筋は、受けた鞘ごと斜めに切り込まれ、刀が割けてしまったほど強い打撃で、これを片手打ちで行ったことになる。一瞬で、極めて腕の立つ太刀筋であったのでしょう。この事から、直接の龍馬を切った犯人は小太刀の名手だということが推定されます。

この殺害現場に残された遺留品は刀の鞘と下駄のみ。重症を負った中岡慎太郎が事件に関してさまざまな証言を残していますが、犯人はいまだわかっていないのが事実です。この日本の歴史上屈指の謎とされる坂本龍馬の暗殺。龍馬暗殺に関しては、いまだ真相がわからず諸説飛び交っており、主な説として新選組説、土佐藩士説、御陵衛士説、紀州藩説、京都見廻組説、薩摩藩黒幕説などがあります。

事件当初は遺留品などから、多くの人が新撰組だと信じていたようですが、明治3年、新選組と並ぶ京都の幕府治安警察だった見廻組の元隊士である今井信郎が自分がやったと自白し刑に復します。

しかし、今井信郎に対する刑が異常に軽く、しかもその減刑のために奔走したのが西郷隆盛だったということもあり、薩摩藩黒幕説も浮上してきたようです。そのほかに、中岡晋太郎の相打ち説や、暗殺の狙いは龍馬ではなく中岡だったという説までありますが、真相は闇の中です。

このように龍馬の死一つでも多くの人にとって気になる存在だったのでしょう。それだけ老若男女問わず好かれていたかの証明にもなります。龍馬は霊山護国神社の京都市内が一望できる墓地に眠っています。墓地の入口から龍馬の墓まで、龍馬ファンの石板寄せ書きが続き、墓には花が途絶えたとこがないと聞きます。今でも、日本人の好きな人間の一人でもあるのです。

NHK大河ドラマ龍馬伝、とうとう終わりました。時代の変わり目に必ず現れる英雄。龍馬はそのような時代に神様がその役目を与えた人間でしょう。しかし、残念なのは龍馬が暗殺されるシーン。最後の暗殺される場面での愛媛県知事選の当確を伝える速報テロップ。大河ドラマ「龍馬伝」の最終締めの部分である最終回。一年かけて放送した龍馬伝を台無しにしてくれました。NHKは”龍馬伝”より”坂の上の雲”に?

龍馬伝も最終回でした。福山龍馬の見事な最後、すばらしかったと思います。そして中岡慎太郎が金槌だと思ってもみませんでした。今回途中、しらけた場面もありましたが最後の最後まで応援有り難うございました。・・そして、少しでも良かったと思われた方、拍手など貰えると嬉しいです。福山龍馬をまだまだ見たいと思う方、年末の総集編を是非ご覧ください。




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タグ: 龍馬伝福山雅治坂本龍馬

主配役

坂本龍馬 暗殺

龍馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。

当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。

中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断をしており、帯刀していなかった。

龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。


龍馬伝 原作 

丸山芸子お元、その後・・・

NHK大河ドラマ龍馬伝の第44回"雨の逃亡者"。イギリス軍艦イカルス号の水夫殺害事件が起き、その探索の中で朝比奈長崎奉行が発見したロザリオ。そのロザリオの持ち主のお元が隠れキリシタンだとばれてしまい、お元は逃亡します。また、龍馬はそのお元をイギリスへ逃亡させました。


この時代においての隠れキリシタン達は、観音像を聖母マリアに重ねたり、キリシタン灯篭などを作り、「納戸神」を祀るなどして、表面的には仏教徒として生活しながら、ひそかに祈祷文「オラショ」を唱えたりしていたようです。お元も時々密かに隠れ、祈るシーンがありました。


また、メダイやロザリオ、聖像聖画、十字架などを隠し持って、生まれて来る子供たちに洗礼を受けさせるなどしたようです。これらの信仰の形はおのおのの地方によって様々な形式で行われていたといわれています。


この第44回の雨の逃亡者でのお元。龍馬に再度「日本をみんなが笑って暮らせる国に変える」という言葉を聞き、そのときはまた日本に帰ると約束をする。気になるのがお元のその後。


キリスト教弾圧はその後も続き、明治政府による弾圧も諸外国の非難・批判を招くことになり、諸外国の圧力により江戸幕府始まって以来の『キリシタン禁教令』が解かれることとなったのです。


それ以後はキリスト教信者ということだけで重罪にされること無く、一部を除く潜伏キリシタンが堂々とキリスト教信仰を表明し、再宣教のために来日したパリ外国宣教会などによって、祖先の信じたカトリック教会の信仰に復帰することとなったといいます。


お元もこのときまで生きていたのか死んだのか・・・生きていれば龍馬の言う、「日本をみんなが笑って暮らせる国に変える」になったとお元も思うことだったでしょう。


NHK龍馬伝もあと4回。龍馬最大の大仕事”大政奉還”に向けて龍馬が最後の力を振り絞ります。そして、龍馬の最後も近づいてきます。


NHK大河ドラマ「龍馬伝」。最後まで応援をし続けたいと思います。これからも最後まで応援宜しくお願いいたします。

NHK 龍馬伝

NHK龍馬伝、龍馬・後藤象二郎

NHK龍馬伝、第4部もはや3話目に進みます。1866年の第2次長幕戦争”馬関の奇跡”では、龍馬が奇襲作戦で長州軍を支援しました。しかし、高杉晋作の三味線を弾きながらの戦い、凄い!!の一言です。今のヒーローでもあのような場面は見たことがありません。

清風亭の対決での、後藤象二郎との対決?面談?、緊張しましたね。後藤象二郎とは、土佐藩や国政に関わった功績があるのですが、、土佐藩が薩長同盟によって倒幕へ傾斜したことに対する土佐藩の焦りがあったようです。

後藤象二郎は龍馬の大政奉還策を土佐藩から幕府に進言するよう山内容堂に進言し、大政奉還を土佐藩の藩論として実現に力を注いでいます。しかし、同策が坂本の発案である事を言わなかったが故に、後藤象二郎は坂本龍馬の功績を横取りしたということも言われています。

しかしながら、龍馬や容堂・徳川慶喜とのパイプ役の重責を担って、明治維新へ進む時代の原動力の中心人物であったこと、そしてその時代にそれなりの動きをした人物でもある事は間違いありません。

明治維新後は明治政府の参与、左院議長、参議などの要職を歴任したのですが、自由民権運動や実業界への転身するとか、ポリシーのないのも後藤象二郎の特長。それに、その時代の英雄、「坂本龍馬」があまりにも大きな存在であったために、維新の面々の中では知名度も低く評価も高くはないのも事実です。

明治の自由民権運動では政府の買収に応じたこともあって、自由民権運動の活動家を何度も失望させたことも知られています。しかし、変わったエピソードでは日本人で初、ヴィトンを愛用した日本人だそうです。

これからのNHK大河ドラマ「龍馬伝」。大政奉還に向けて福山龍馬が鬼神の活躍を見せるでしょう。これからも乞うご期待を・・・。

これからもNHK大河ドラマ「龍馬伝」を側面から応援をし続けたいと思います。これからも応援宜しくお願いいたします。

NHK 龍馬伝

第41回さらば、高杉晋作

第41回さらば、高杉晋作。いよいよ、亀山社中が会社名変更です。土佐藩と手を結び、龍馬も土佐藩に復帰、亀山社中改め、海援隊となりました・・・そしてやはり、龍馬伝でのシーン、海援隊の文字、手島右卿賞を受賞した紫舟さんの文字?ですね。


今回の見所は、龍馬と、死を間際にした高杉晋作と海での最後の話のシーンですね。キタッーって感じでしたね。高杉晋作については過去の記事を参考にしてください”坂本龍馬と高杉晋作”。伊勢谷祐介・高杉晋作もこの回で見納めです。


そして、岩崎弥太郎も才覚を発揮し始めてきました。商魂たくましく野心むき出しで龍馬にぶつかっていきます。また、龍馬は海援隊の仕事始めでいろは丸で大阪に向け出航です。ビジネスと大政奉還の二つをこなそうとする坂本龍馬。これからは龍馬暗殺まで矢継ぎ早に話が進みます。


これからもNHK大河ドラマ「龍馬伝」を側面から応援をし続けたいと思います。これからも応援宜しくお願いいたします。


※いろは丸
1862年、イギリス・バーミンガムで建造、アビソ号と命名される。1866年6月、大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が長崎において坂本龍馬と五代友厚の仲介によりポルトガル領事ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロから4万メキシコ・パタカ(当時のレートで1万両)で購入、いろは丸と改名する。1866年12月、大洲藩は幕府にいろは丸を、城下町人の購入船として届け出る。1867年4月、大洲藩はいろは丸を坂本龍馬の海援隊に貸与、19日(5月22日)に龍馬は大坂に物資(鉄砲)を運ぶために長崎を出航。23日(26日)、紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没。長崎奉行で海援隊と紀伊藩で争われ坂本龍馬はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊や陶器など4万7896両198文を積んでいたと主張、紀州藩は8万3526両198文を弁償した。これは日本で最初の海難審判とされている。しかし、近年行われた調査では、龍馬が主張した銃火器などは見つかっていない。・・・ウィキペディア引用

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