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龍馬の生涯

坂本龍馬の生涯履歴

坂本龍馬の生涯履歴

坂本龍馬生誕地(高知市上町)
龍馬生誕地

天保6年(1836年)
11月15日、龍馬誕生。11月10日生れとの説もある。現在の高知県高知市上町に生まれる。龍馬の兄弟は坂本八蔵の1人娘・幸と八平との間に最初に誕生したのが、「大蔵」、そして 「千鶴」、「栄」、「乙女」。母・幸は、龍が炎を吐きながら胎内に躍りこんだ夢を見たと言われ、そして父・八平はこの話を聞き歓喜し、「龍馬直柔」と名付けたと言われています。



嘉永3年(1846年)
龍馬の母・幸死す。 龍馬12歳の時、小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。

嘉永6年(1853年)
剣術修行のため江戸(東京都)に出て、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉の桶町千葉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)に入門した。12月には佐久間象山の私塾にも通っている。

安政元年(1854年)
土佐に帰郷。画家の川田小龍から西洋事情を学ぶ。

安政2年(1855年)
父・八平が死去。

安政3年(1856年)
再び江戸・小千葉道場に遊学。

安政4年(1857年)
盗みを働き切腹沙汰となった仲間の山本琢磨を逃がす。

安政5年(1858年)
剣術修行を終えて帰国。北辰一刀流免許皆伝。

文久元年(1861年)
3月、土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。半年後、下士は武市瑞山をリーダーに土佐勤王党を結成し、龍馬は9番目に加盟した(龍馬は土佐では加盟第1号)。10月、武市の密使として長州へ向かい、翌年2月、久坂玄瑞と面談。

文久2年(1862年) 3月に沢村惣之丞とともに脱藩した。その直後に勤王党による吉田東洋の暗殺事件が起り、当初は龍馬が実行犯として疑われた。龍馬は九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。その後、千葉重太郎の紹介で、幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、12月、勝海舟に面会して弟子となる。

文久3年(1863年)
勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力し、操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめる。勝・松平春嶽の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許される。この頃、龍馬は勝の護衛に勤王党の人斬り・岡田以蔵をつけている。八月十八日の政変で京から尊攘派が駆逐され、土佐勤王党も藩によって壊滅状態となる。藩の弾圧は江戸の龍馬にも伸び、龍馬は再脱藩する。

元治元年(1864年)
神戸海軍操練所が創設された。龍馬はこの頃、弾圧が激しさを増していた京の尊攘過激派を救うべく蝦夷地への移住計画を開始するが、池田屋事件によって頓挫した。池田屋事件への報復である禁門の変で、長州側に多数の海軍塾生が加わっていたため、海軍塾は幕府から弾圧され、勝も解任された。勝の庇護を失った龍馬であるが、勝の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って大阪の薩摩藩邸に保護される。

慶応元年(1865年)
京の薩摩藩邸に移った龍馬の元に中岡慎太郎らが訪問。この頃から中岡と共に薩長同盟への運動を開始する。薩摩藩の援助により、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。龍馬は、長崎のグラバー商会(イギリス武器商会のジャーディン・マセソン商会の直系)と関係が深く信用を得ていたが、8月、薩摩藩名義で香港のジャーディン・マセソン商会の信用状により長崎のグラバー商会から買い付けた銃器弾薬を長州藩に転売することに成功した。この年、「非義勅命は勅命にあらず」という文言で有名な大久保利通の書簡を、長州藩重役に届けるという重大な任務を龍馬が大久保や西郷に任されている。

慶応2年(1866年)
1月、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれた。このとき龍馬は桂に求められて盟約書の裏書を行っている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる。裏書を行う直前に寺田屋で幕吏に襲撃されたが、一命を取り留める。その傷を癒すため、妻おりょうと共に鹿児島を旅行する。6月、第二次長州征伐では亀山社中の船・ユニオン号(グラバー商会から薩摩藩名義で買い入れ「桜島丸」となり、長州藩に引き渡され「乙丑丸」となる)で長州藩海軍を支援。

慶応3年(1867年)
土佐藩との関係を修復して海援隊を創設した。4月、いろは丸沈没事件がおこり御三家紀州藩に損害を賠償させる。後藤象二郎とともに※船中八策を策定し、後藤象二郎が山内容堂を説いて土佐藩の進言による大政奉還を実現させた。12月、京都の旅寓・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺された。旧暦の誕生日と命日は同じ。暗殺犯は京都見廻組という説が有力である。
【船中八策】
一 、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令官しく朝廷より出づべき事
一 、上下議政局を設け、議員を置さ、万機を参賛せしめ、万機宜しく公論に決すべき事
一 、有材の公卿・諸候及び天下の人材を顧間に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
一 、外国の交際広く公議にとり、新たに至当の規約を立つべき事
一 、古来の法令を折衰し、新に無窮の大典を撰定すべき事
一 、海軍宜しく拡張すべき事
一 、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
一 、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべき事家に二主なきごとく、国に二帝あるべからず。政刑唯一君に帰すべし。
【龍馬暗殺】
慶応3年(西暦1867年)11月15日の龍馬は風邪気味で、土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。この日の夕刻、中岡慎太郎が龍馬を訪ねて来て共に危難にあった。十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉(醜名・雲井龍)に取りつぎを頼み、龍馬のもとへ案内しようとした藤吉を斬り伏せる。藤吉の倒れる音を聞いた龍馬が「ほたえな!」と声をかけた所へ2人の刺客が入り、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部を斬りつけた。不意を襲われた龍馬、慎太郎は鞘を払う暇もなく、龍馬は頭部に二創を受けて絶命、中岡は翌々日の17日「王政復吉の実行は岩倉具視卿に頼るほかはない」と言い残して絶命した。身に十数創を負っていたと言う。慎太郎はこの時「こなくそっ」と言う伊予弁(又は土佐西部地方の訛り)の掛け声を耳にしていた。
龍馬・慎太郎を襲った刺客は、京都見廻組与頭・佐々木唯三郎以下、今井信郎・渡辺吉太郎(篤)高橋安次郎・柱準之助・土肥仲蔵・桜井太三郎の7士と言うのが定説となっているが定かではない。慎太郎には暗殺者が何者であるか分っていたと言われているが、周囲の人達にその名を明かさなかったという。

明治4年(1871年)
8月20日に龍馬の系統が途絶えるのを防ごうと、綸旨により姉千鶴の長男高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継いだ。墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹。なお、靖国神社に祀られている。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

タグ: 龍馬伝 NHK大河ドラマ 坂本龍馬

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