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岩崎弥太郎

芸者をあげて豪遊する岩崎弥太郎

第14回お尋ね者龍馬は、大広間に芸者をあげて豪遊する岩崎弥太郎(香川照之)に新聞記者坂崎紫潤が龍馬のことを聞くシーンから始まります。この岩崎弥太郎、郵便汽船三菱社長。一代で築き上げた三菱財閥、この奇跡を何故成し遂げたか、岩崎弥太郎を考えてみます。

明治3年弥太郎は九十九商会を立ち上げ独立。武士から実業家になったわけです。そして、明治5年九十九商会を三川商会と改名、樟脳事業、生糸事業などを県から払い下げを受け事業を拡大します。そして、翌年三川商会を三菱商会と改称し本社を東京に移転しています。

ここから、岩崎弥太郎の事業が発展していきます。明治7年には台湾への軍事介入に際し政府より軍事物資や兵員の輸送を受注し大いなる利益を上げていきます。この頃、岩崎弥太郎は社名を三菱汽船会社と改めています。

この後、岩崎弥太郎・三菱汽船会社は国内の主の航路を制し、明治8年には上海定期航路を開いています。そして、アメリカの太平洋郵便会社の日清間航路を買収しさらなる拡大発展をしていきます。また、明治10年の西南戦争で軍事輸送を命じられるに至り、日本の海運業の先頭に立って行きます。

三井・住友などは江戸時代からの蓄えた資金で明治になり儲けた物。岩崎弥太郎は一土佐の下士から三井・住友に並ぶ三菱財閥の基礎を築くには半端な事では出来ないはず、このこと自体ある意味奇跡といえるかもしれません。

弥太郎は、龍馬伝で香川照之が演じるような、気持ちをそのまま出し、人からは奇行に見えるかもしれないが、本人には考えたことそのまま行動に移しているだけ。時々に、強引に移る行動で失敗したり、人から恨まれたりすることが多かったというが、性格、行いは大胆不敵そのものだったのです。

また、岩崎弥太郎は人を惚れ込ます雰囲気、情熱を持っていたようです。そのため、弥太郎のブレーンには優れた人間が沢山集まってきます。三菱三傑と言われた、川田小一郎、石川七財、森田晋三、そして豊川良平、土居市太郎など弥太郎にとって三菱を作り上げるために必要な優秀な人材を見つける目も弥太郎の隠れた才能であるかもしれません。

これからもNHK大河ドラマ「龍馬伝」を側面から応援をし続けたいと思います。これからも応援宜しくお願いいたします・・・そして、少しでも良かったと思われた方、拍手など貰えると嬉しいです。
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タグ: 龍馬伝 岩崎弥太郎

岩崎弥太郎

岩崎弥太郎 父系

岩崎弥太郎 系譜
岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られています。


三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたるわけです。


そして、弥太郎の孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがおりました。


曾孫には鎮西清高(古生物学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく古生物学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務めた岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の4代目当主)らがいる。


岩崎弥太郎の死後、嫡男の久弥が父の業績に対し男爵を授けられました。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかったのです。


岩崎弥太郎の家紋は重ね三階菱。当然、岩崎家が武田家の流れをくんでいるのもこの家紋を使用している事で判ると思います。以前にも述べましたが、三菱のマークのスリーダイヤになるのは明治の頃です。

これは、土佐藩の山内家の家紋三葉柏の紋をなぞらえ三階菱を変形させたと言われています。
三階菱三階菱

山内三つ葉柏

ダイヤ1三菱1

ダイヤ2三菱2

最後までお付き合い戴き有り難うございます。「龍馬伝」や龍馬に関する記事、満足戴けたでしょうか?これからも来年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を側面から応援をし続けたいと思います。









タグ: 龍馬伝 NHK大河ドラマ 岩崎弥太郎

岩崎弥太郎

岩崎弥太郎 

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)

1835年1月9日(天保5年12月11日) - 1885年2月7日)
岩崎 弥太郎は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。

岩崎 弥太郎は土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男として天保5年12月11日に安芸郡井ノ口村一ノ宮で誕生する。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。

岩崎弥太郎は幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められたという。そして21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾する。

1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放される。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得る。

吉田東洋が参政となり、これに仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事する。吉田東洋暗殺の犯人を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し無断で帰国したという。

吉田東洋暗殺の犯人の探索でいった大阪行きについては藩主の江戸参勤に同行中、規律に反したとの理由で帰国を命じられたものともいう説がある。大阪に残った井上佐一郎は岡田以蔵によって斬殺され、弥太郎は一命を取り留めた形になったが、長崎での藩費浪費の責任なども問われ、帰国後職を辞した。

慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当した。

明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、大坂の土佐商会に移る。翌年10月、土佐商会は九十九商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。

廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。

三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。もともと岩崎家の先祖は甲斐源氏の末裔で竹だけであると言われていたようです。武田家から岩崎家に分かれたのは鎌倉時代。甲斐の国から阿波の国、それからこの子孫である岩崎信寛の時に土佐・安芸にきて、安芸忠国に仕えた。これから見ても岩崎家が武田家の流れをくんでいる。家紋も三階菱の家紋を使用している。三菱のマークになったのは明治以降で、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作ったということは有名である。

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。

三菱商船学校(のちに官立の東京商船学校を経て現国立東京海洋大学海洋工学部)創設者である。

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